はしこいはしばし

越畑はしこのゆるゆる雑記メモ

【考察】GRANRODEOのセツナの愛のMVは何を意味している?

2020/07/29 追記

15周年を迎えた折、7/31にYouTubeで配信される「GRANRODEO 15th Anniversary Startup Live〜たかが15年〜」を目前に控え、公式が歴代楽曲のMVをYouTubeに公開し始めた!

これは嬉しい。

 

GRANRODEO / セツナの愛

 

SPOT版ではなくFULLでお披露目!!

これは太っ腹。

 

GRANRODEOの30th Singleである「セツナの愛」。

この曲は「文豪ストレイドッグス」というアニメの第3期OP主題歌だ。

 

ちなみに文ストにはGRANRODEOのボーカルのKISHOWも声優として(谷山紀章名義)中原中也役で出演している。

 

さて、そんな「セツナの愛」のMVを自分なりに考察した。

 

どうせn番煎じだと思ったが、意外にも考察記事はヒットせず。先にやられてるものだと思っていたが・・・。

 

とにかく先に言っておきたいのは、

 

「最高だから見てくれ!」

 

それに尽きる。

 

勿論GRANRODEOのファンだから他の曲のMVも好きだ。

 

ただ、私はこのセツナの愛のMVには特筆してエモさを感じている。

出来ればそれを多くの人に知ってもらいたい。

あくまで個人的解釈にはなるが、是非楽しんでほしい。

 

では参る。

 

 

【燃やされる書籍】

これは本筋と関係ない余談だけど。

MV中で燃やされる書籍は、文ストタイアップ曲なだけあって、みんな作中に登場する文豪たちの代表作。

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しかも、燃やされているのは武装探偵社の人物の本。

 

中島敦山月記

国木田独歩:武蔵野

江戸川乱歩:D坂の殺人事件

与謝野晶子:みだれ髪

宮沢賢治銀河鉄道の夜

 

これはボーカルのKISHOWが演じているのがポートマフィア側の中也なので、敵対の意味での演出かもしれない。

 

とはいえ太宰や鏡花、谷崎の本はないし、異能力とも関係ないチョイスなのでそんなに深い意味は無さそう。

 

たぶんこれは文ストファンに対する一種のサービス的な演出なんだろうと思う。


【登場する異形達】

MVには極彩色の髪や奇妙な特徴を持った人間たちが登場する。

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火を吹いたり、ツノが生えていたり、中性的だったり。

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最初に出てくる車椅子に乗った婦人と男性は、正面を捉えたカットで同一人物だと分かる。二つの顔(人格)があるのだ。

 

彼らはまるでサーカスのように妖しくて奇抜で、どこか寂しげにも見える。

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曲の1番から2番にかけては「異形たちの紹介」だ。

燻る廃墟で一人一人見せ場がある。

 

 

色んなパフォーマンスをして、どんな異形なのかを表していく。

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衣装はみんな黒基調。どこかしらに刺々しい色や装飾が施されている。

派手だが美しいのだ。

 

そう、異形はすべからく、どれもが美しい。

 

決して「普通」ではないけれど。

 

この異形達は、タイアップ元である文スト的に言うなら、この世界での「異能力者」だろう。

 

文豪ストレイドッグスという作品は、文豪たちがその文豪の著作の名を冠する異能を使ってバトルする作品。

 

登場する文豪たちはみな、異能力を操る異能力者なのだ(例外もあるが)。

 

文ストの「異能」は常人とは異なる能力(猛虎になったり重力操ったり怪我を治したり)。

 

対してセツナの愛のMVでは、映像なので、ビジュアルに重きを置いている。

サーカス一座の彼らと彼らのパフォーマンスは「異能」というより「異形」と言う方がしっくりくる感じ。

 

見世物的な妖艶さだ。

 

常人とは違う特徴を持つ彼等は、きっと普通の世界では疎まれたり気味悪がられたりするのだろう。

それこそ文スト作中で、夢野久作が言っていたように、

 

『こんな力が欲しいと思った事は一度もない』

『どうして僕だけ』

 

と思うのかもしれない。

でも、そんな異形の彼等が集まった時、個性の際立つ美しい集団を形成する。

 

MVの最後がそうだ。

みんな横並びに並んでいると壮観。

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世間から疎まれ忌避される彼等は、一人では気味の悪い怪物でも、集団になれば立派なサーカスに成るのだ。

 

【KISHOWとe-ZUKAの立ち位置】

そんな異形たちがいる廃墟で歌うKISHOWとギターを弾くe-ZUKA。

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これとは別に、彼らは登場人物でもある。

つまりMVの物語の中の2人は「セツナの愛を演っている二人」ではなくて、「セツナの愛の世界に置かれた二人」ということだ。

 

なぜそう言えるのかと言えば、先述の異形たちとロデオの二人が一緒に存在しているシーンがあるからだ。

 

言うなれば、この世界は物語であり、二人も異形たち同様その登場人物である、ということだ。

 

【侵蝕されるKISHOW】

ここまでの前提があって、2番が終わり間奏に入った所で物語が動く。

 

2番まではGRANRODEO2人のカッコいいパフォーマンスと、異形たちそれぞれの紹介のフェーズだ。

問題はここから。

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間奏に入ると、双子の異形が出てきて、その身体を絡ませ合う。

まるで愛し合うように。

 

そしてKISHOWがブラウン管に映し出される。

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顔の周りを這う艶かしい手はどんどん増えていき、KISHOWの顔を侵蝕していく。

 

これはおそらく異形たちの手だ。この世界に置かれた彼を求めるように、異形の手は彼の顔を飲み込んでいこうとする。

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これはKISHOWが異形に取り憑かれていくことを示唆しているのだと思う。

もしかしたら、歓迎しているのかもしれない。

自分たちと同じように、彼もまた、異形になり得る存在だと。

 

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最後の方に一瞬だけ映るカット。

ブラウン管から侵蝕した手が、ついに本人にまで及んでいる。

このカットは一瞬しか出てこないのだが却ってとても印象的である。

 

【e-ZUKAの存在】

そして同じくこの世界に置かれたe-ZUKA。

じゃあ彼はどんな存在なのか。

 

このMVを見た私は、異形たちとは反対の「普通の人」として描かれていると感じた。

 

「普通の人」というと素っ気ないが・・・

言い換えれば「異能力者」に対する「非異能力者」にあたる立ち位置。

 

この物語の中で彼だけは、奇妙でも奇抜でも特異でもない、どこも"おかしさ"をはらんでいない、「普通」の人なのだ。

 

前述、KISHOWが侵蝕されていくシーンと同じ間奏のタイミングで、e-ZUKAが映るシーンがある。

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最初は1人ぽつりと、真ん中に佇んで何処かを見ている。

その後、そのe-ZUKAの周りにサーカスの異形たちが現れる。

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異形たちが立っている中でもさっきと変わらず、ど真ん中に佇んでいるe-ZUKA。

色とりどりの髪色をした、見た目も奇抜な彼らに混じっていても、e-ZUKAは変わらずそこで存在感を放っている。

 

黒い衣装の背中と、遠くを見つめる斜めの顔。

照明に照らされた異形の中のe-ZUKAは、どこか特別な人間として置かれているように見える。

 

 

特別な人間——異形サーカスの中に居て特別というのはつまり、「異形ではない普通の人間」だ。

 

この世界は奇妙で奇抜で特異な異形の集まりだ。

普通だったら異形たちの方がよっぽど「変わっている」のに、この世界では逆。

 

この世界では「普通」なe-ZUKAが逆に特別で、唯一無二な存在になる。

「普通」の彼が、異形に囲まれている。

これは対比と取れるだろう。

 

そして、KISHOWとは違い「普通」の彼は、異形に招かれることはなかった。

異形たちの手は、e-ZUKAには伸びていない。

 

彼はあまりに「普通」で「特別」だったから、きっと異形たちの棲むこの世界と混ざり合うことがなかった。

そういうことなのだと思う。

 

これが、相方であるKISHOWとの、決定的な違いになる。

 

【大サビの前の歌詞の意味】

最後大サビの前の部分。

「少しずつ君を忘れよう 思い出せなくなるほどに」。

 

歌っているのも作詞もKISHOWだ。

だから殊更、彼の言葉のように聞こえる。

 

じゃあこのMVの世界でKISHOWが「君」と二人称で指しているのは誰か?

 

e-ZUKAじゃないか。

そう思った。

 

先述した、e-ZUKAが異形たちの真ん中に佇んでいたあのシーンがあったと思う。

 

これは「KISHOWが異形の手に侵蝕されている最中に見ていた景色」なんだと思う。

 

その視線の先に居たのだ。

相方であり、唯一この世界で「異形ではない」e-ZUKAの後ろ姿。

異形に囲まれていてもなお、変わることのない彼。

 

そんなe-ZUKAの姿を、KISHOWは見ていたのかもしれない。

KISHOWは「少しずつ」忘れていく。

「思い出せなくなるほどに」。

 

ここからはMVには描かれていない空白部分の想像だ。

 

KISHOWは異形に好かれ、憑かれ、やがて普通ではなくなっていく。

 

その過程は果たしてどんな「喜び」で「恍惚」なのだろうか?

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そして普通から異形へ変わってしまえば、それに対する「苦痛」も「対価として支払う」ことになるのだろう。

 

奇妙で奇抜で特異な存在になってしまう。

常人の理解から外れた、孤独な存在になってしまう。

 

同じ「異形」ならば、寄り添って孤独を分かち合えるのかもしれない。

でも「普通」の人からは——。

 

KISHOWが支払う対価の中には、きっとそういう苦痛が待っている。

そして、恐らくそれだけではない。

 

「思い出したくても思い出せない誰かの記憶」。

 

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何か、誰か、大切な記憶だったことは憶えている。

でも、どんなに思い出したくても、「少しずつ」忘れていってしまった記憶は、今ではもう思い出すことが出来なくなった。

 

異形の世界を選んだことに対する「支払われる対価」だ。

彼が何者で自分とどういう関係でだったのか、すべては忘却してしまったのだ。

「思い出せなくなる程に」。

 

それがどんなに大切な記憶であっても。

 

 

ただ唯一、脳裏に残っているひとひらの記憶。

 

それは、最後顔をこちらに向け、飲み込まれる自分を一瞥した、彼の姿なのかもしれない。


【まとめ】

以上が考察というか、勝手に私がMVを見て感じた解釈だ。

 

余談だが、当時のインタビューで記者が「愛といえば、誰かと誰かのラブだったりするのか」みたいな発言したことがあった。

 

それに対してKISHOWは「文ストの太宰と中也的なことですか?そこら辺の展開が好きな人にお任せしますよ、僕は中の人なんで明言は避けるけど」と言っていた。

 

実際発売当時もそういう声は多かったみたいだし、文豪ストレイドッグスは原作の人気も高い。

その作品やキャラクターと、主題歌をリンクさせるのは謂わばあるあるな話だ。

 

出来上がって世に放たれたものを、どう解釈してどう消費するかは消費者の一存だ。

そして多くの人がそう解釈をしたならそういう余地があったということなんだろう。

 

この曲のタイトルは「愛」がつけられている。

 

歌われる歌詞も全体的に抽象的ながら、「愛する為の後悔なんてもう二億年前に捨ててきた」「キスは後にして」など、ところどころにKISHOWの言葉で愛の形が紡がれている。

 

確かな絆や愛がある2人は、おそらくこの世にたくさん存在している。

その2人が形成する愛の形がどんなものであれ、それが尊いということに変わりはない。

そんな2人の片方が、大切なもう片方の存在を忘れていってしまう・・・

 

そんなストーリーを想起させるような、優秀な楽曲とMV。

 

それが「セツナの愛」なのだ。

 

GRANRODEO / セツナの愛

 

是非拝聴あれ。